狛犬瓦版

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映画『ジョーカー』:ジョーカーの狂気を垣間見る瞬間

※ネタバレ全開でお送りします。ご注意ください。

 世間の流行に遅れること数週間、遂に映画『ジョーカー』を鑑賞した。

 ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本でも公開されるやいなや凄まじい大反響と賛否両論を呼んだ本作。SNSに流れてくるちょっとした感想をつまみ食いするだけでもかなりクォリティの高い作品であることは簡単に想像でき、鑑賞前の期待もかなり高かった。

 

 そして鑑賞後。私は言葉にできない複雑な気持ちを抱えて劇場を後にすることとなった。

 

 これは『ジョーカー』がB級映画だったとか、自分の中のジョーカー像と解釈違いを起こしたとかそういう話ではない。間違いなく本作は超一流の映画であったし、そもそも私はDCコミックス初心者だ。解釈違いも何もない。

 

 では、このモヤモヤした気持ちは一体何なのだろうか。

 

 本作の主人公は言わずと知れたスーパーヴィラン・ジョーカーだ。本作は彼のオリジンを描いたものであり、アーサー・フレックが徐々に狂気に堕ち、犯罪王子として覚醒するまでの物語である。

 

 序盤から中盤にかけて、貧困層であるアーサーの窮状がこれでもかと描写される。ピエロの仕事をすれば悪ガキに絡まれ、家では病気の母親の看護をしながら二人暮らし。突然笑いだしてしまう持病に悩まされながらも、カウンセラーはまともに話を聞いてくれない始末だ。そんな彼は少しでも辛さを和らげるために、妄想の世界に浸ることを趣味としている。

 

 そしてここが鑑賞後、考察を進めていく上での大きな障害となる。彼の妄想は極めてシームレスに現実世界の描写と切り替わるため、鑑賞する側の人間からすれば、どこまでが彼の妄想なのか判断に困る部分がある。シングルマザーのソフィーと交流を深めたことはアーサーの妄想であると劇中で明確にされていたが、それ以外は特に明かされない(ソフィーに関しては現れる場面があまりに唐突すぎるという違和感があったため、注意してみていればわりとすぐに気づくことができるが)。

 

 しかも本作のラストは精神病院に収監されたアーサー、いやジョーカーの姿で終わる。つまり、「本作そのものがアーカムアサイラムの中でジョーカーが考えた悪趣味なジョーク」である可能性も否定できないのだ。

 

 まさに虚実崩壊、どこからどこまでが作中世界における「現実」なのか分からない。

 

 作品全体に横たわる現実性の無さと、作中で描かれる人間の生々しいリアリティの矛盾。この不安定な足場に立たされたかのような感覚が、どうにも気持ちをぞわぞわさせる。

 

 リアリティと言えば、この作品に登場する一般人はどれも非常に生々しい。明確に「悪人」と呼べる人間は冒頭の悪ガキやアーサーに射殺された三人のサラリーマンくらいだが、業腹なことに彼ら程度の悪辣さは現実世界でもそこら中に転がっている。アーサーに対する偏見など、この作品における一般人は我々の感覚に極めて近いものを持っているように思える。

 

 で、問題のアーサーだ。彼はジョーカーに覚醒する前は明らかに善良な人間だったし、その境遇は悲惨の一言だ。なのに、なのに私はこれっぽちも彼に感情移入することも、同情することも出来ない。出来ない、というよりそういう類の感情が一切湧いてこないのだ。

 

 ジョーカーに対して共感できないのはともかく、アーサーに共感できないのはどうもにもおかしい。劇中、アーサーは「どこにも自分がいない気がしていた」と述べている。このような感覚は現代人なら誰でも覚えていておかしくないものであり、無論私もそれに悩まされたことがある。なのに彼にはまったく共感できない。

 

 ネット上の感想を見てみれば、「誰もがジョーカーになりうる」とか「ジョーカーのことが分かった気がする」といったようなものがそこそこ多い。本当にそうなのか?

 

 私は本作のジョーカーの感性は、理解できる、共感できる部分こそあれ、基本的にそれを「理解する」、あるいは「理解した気になる」ことは極めて危険なことだと思う。

 

 本作のジョーカーはマレーのショーに出演した際に、「政治には無関心」、「シンボルになるつもりはない」と断言している。彼はあくまで独りのコメディアンであり、群衆を扇動する気はない。にもかかわらず、人々はジョーカーを反体制の象徴として祀り上げる。

 

 アーサーがサラリーマン三人組を射殺したのも、ランドルを惨殺したのも、マレーを射殺したのも、全て「自分をバカにしたから」という極めて個人的な動機だ。この自分の決めたルールを順守する潔癖さはコミックスのジョーカーに通ずる部分がある。

 

 ジョーカーが望む望まないにかかわらず、彼の行動は大衆を動かしてしまう。彼が動かしてしまったのはゴッサムシティの住民だけではない。そう、映画を観た人々でさえも動かしてしまったのかもしれない。

 

 ジョーカーは「僕が道端で死んでいても、誰も気づかない」と言った。現に冒頭部、悪ガキに看板を奪われたアーサーを助けようとする人は誰もいない。そしてアーサーがサラリーマンを射殺すると、一転して彼を義賊のように扱い反体制の象徴とする(もっとも、ここではアーサーの顔が割れていなかったというのも大きいのだが)。

 

 ゴッサムシティの民衆はジョーカーに勝手な理想を投影する。それは映画を観た人々も同じだ。ジョーカーという存在に理想を透かし見て、勝手に理解した気になり勝手に同情する。誰も彼の本来の貌を知ろうともしないし、知ったところで自己投影が消えることはない。

 

 だから、彼はラストシーンでこう呟くのだ。

 

「ジョークを思いついてね」

「どんなジョーク?」

「…………理解できないさ」

 

 ジョーカーのジョークは誰にも理解できない。理解しようとしない。ジョーカーそのものを見つめようとするのは、世界にただ一人しかいない。ジョーカーが生まれたその日、同じ街。ジョーカーを模したピエロの仮面をかぶった暴徒に襲われ、両親を失った少年。彼が恐怖を力に変える闇の騎士になるかどうかは定かではないが、いずれなるのだろう。ジョーカーのコメディの相方は、彼一人しか成り得ないのだから。

 

 纏めよう。私は『ジョーカー』という映画そのものが、ジョーカーのジョークだと理解した。この映画を敢えて分類しようとすれば、そのカテゴリは間違いなく娯楽映画になる。だが、本作は笑えないし酷く悪趣味だ。まるでジョーカーのジョークのように。

 

 故に、共感も同情もしない。ジョーカーのジョークを理解しそれに爆笑するほど壊れてはいないし、ジョーカーに何かを投影するようなことはしたくない。

 

 最後に余談を一つ。ジョーカーが「ノック・ノック」のジョークを披露しようとしたとき、私は彼が自殺するつもりなのだと思っていた。マレーのショーで自殺すること、それこそが彼の考えたジョークなのだと。だが、ジョーカーは自分のネタ帳に記された、「この人生以上に"硬貨"な死を」というジョークを見てしまう。

 

 これは日本語だけだと意味が通らないな、と思ったので英文を探してきた。

 

    I hope my death makes more cents(sense) than my life.

 

  直訳すると「私は私の死が私の人生よりお金になる(意味ある)ものになることを望む」となる。この誰にも笑えないジョークを、自分の人生を喜劇だと言うジョーカーが見たとき彼は何を思ったのか。

 

 ただ、脳にこびりついたジョーカーの笑い声が響く。彼はいったい、何を笑っているのだろうか。