狛犬瓦版

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大人になんてなりたくない~天神子兎音さま新曲『Erase』鑑賞レポート~

 大人になるということは、妥協するということだ。

 

 幼い頃は誰しも、未来に希望を抱いている。どんなことをして働こう、どんな大人になって、どんな素敵な夢を叶えよう。

 この世界は無限の可能性に溢れていて、どこだって行ける、なんだって出来ると無邪気に信じていた。

 やがて成長するに従って、夢は少しずつ色褪せ、輝きを失っていく。

 

 自分は選ばれた主人公ではない。

 

 夢を叶えることが出来るのはほんの一握りであり、それは少なくとも自分ではない。

 

 夢とか希望とか、そういった大切なものを誰かに売り渡し、代わりに安定と社会的地位を購入する。そうしていつの間にか、あれだけ馬鹿にしていた「つまらない大人」に成り果てている。

 

 天神子兎音さまのオリジナル曲第4弾として発表された『Erase』は、そんな誰かの気持ちを歌った曲だ。

 

 

youtu.be

 

 『忘れましょう 全部 神隠し 消してしまうの あやまちを 取り繕うように』という歌い出しから始まる本楽曲は、どことなく攻撃的なメロディーとは対照的に、全体的に乾いた絶望と悲鳴に満ちている。

 

 薄っぺらな親切を貼りつけた誰かに対する苛立ちと、「欲しがった未来」を諦めている自分への失望。

 

 前作『かごめ』は名前の通り「かごめかごめ」をモチーフとし、同調圧力に屈して顔の無い誰かに屈することを全身全霊で否定する歌だった。前作では『大人になれなくても 晒せ 晒せ 本当の自分を貫くよ』と力強く歌い上げていたのとは対照的に、今作では『大人なら 成らなくていい』と呟くように歌っているのも特徴的だ。

 

 仕方がない、と諦めることは現代において必須スキルだと言っていい。大切にしていた夢を追いかけているだけでは、生きていけない。

 宝物から目を逸らして、ただ日々を生きるために自分をすり減らしていく。そんなことは珍しくもなんともない。

 

 そんな様子は、「かくれんぼ」に喩えられている。ここで隠れているのは昔の夢、欲しがった未来だ。そして鬼は自分自身。

 当たり前の話だが、かくれんぼは鬼に探す気が無ければ成立しないゲームだ。探す気があったとしても、隠れた方を発見することが出来なければ永遠にゲームは終わらない。恐らく、昔のかくれんぼでは隠れた子を発見できず、そのまま何らかの理由で行方不明となってしまうこともあっただろう。まるで神隠しのように。

 

 そして現代に生きる我々は「鬼」としての役割を果たす気が無い、もしくは果たせない。永遠に見つけられない隠したモノは、初めから無かったのと同じ。つまり消去=Eraseである。

 

 だが、残念ながら隠すと消すはイコールにはならない。鬼に探す気がなかろうと、隠したことすら忘れていようと、無かったことにしたかろうと、そこにあるという現実は変わることが無い。

 

 最後のパート、『数えましょう 参 弐 で捕まえて 己れの意志を 目を逸らしてしまわないように』という部分は、消し去ったはずの何かと再び向き合う様子を示している。

 

 子兎音さまのオリジナル曲は、第1弾の『フーアーユーなんて言わないで』を除き、その全てが「反逆」の歌だ。つまらない今、顔の無い誰かに対する反抗。それらが核にあった。

 しかし『Erase』は徹底的に内に向かう曲だ。自分の心の奥深くに隠した、幼い頃の夢ともう一度向かい合う曲だ。

 

 Eraseとは、拭い去るを意味する単語だ。どれだけ強く拭いても消えないものはある。そして、それに気付くことは自分にしかできない。

 

 全肯定してくれるわけでも甘えさせてくれるわけでもないが、この曲は温かいエールだと感じた。

 

 隠された夢をもう一度見つけたところで、それが叶うとは限らない。むしろ、叶わないことの方が多いだろう。しかし、己の本心から目を逸らして腐り続けるよりは、原点に立ち返って前を向くほうが、「生きている」と言えるのではないだろうか。

 

 この記事を読んだ皆さんも、『Erase』を聴きながら夢に想いを馳せてみてはいかがだろうか。

Vtuberオタクとしての自分から少し離れてみた

 何の前触れも無く、タイヤがパンクした。 

 

 タイヤと言っても現実の車の話ではなく、私のモチベーションに生えているタイヤである。それが先日、バチンと綺麗に弾けた。

 

 夜中にTwitterをしているとき、私はふと、今の自分を振り返ってみた。ホーム画面に戻り、自分のツイートを読み直す。するとまあ、酷いことになっていた。

 

 推しと推しが所属する箱への不満が止まらない。それはもう破砕帯から噴出してくる水かよ、と言った具合で、グチグチと不平不満を垂れ流していた。今流行りの『鬼滅の刃』風に言えば、「心の中の幸せを入れる箱に穴が開いてる」状態だった。推しに対しての不満は、まだ冷静さを保てていたのが不思議なほどだ。付き合ってくれていた友人たちには、感謝しかない。

 

 こりゃダメだ、と思った。このままでは、確実に厄介野郎かアンチの仲間入りである。このままスッパリとV界隈から去ることも考えたが、それはどうしても出来なかった。ただ、このまま居続けても良い結果にはならないので、少し距離を置こうと思った。

 

 とりあえず、TwitterのVアカのTLは覗かないようにした。推しのツイート通知だけはONのままだったが、まあ甘さというか決意の緩さである。Youtubeも一切触らなかった。動画を見たいな、と思えばAmazon primeなりがあったし、音楽が聴きたければ自分で買えばいい。

 とにかく、自分の日常からVtuberをシャットアウトした。Vtuberをハマる前の自分に戻ろうと思った。

 

 結構キツイだろうな、と初めは思っていた。ここ最近の私にとって、世界の半分くらいはVtuberとそれに付随するもので回っていたし、私が属している世界は殆どそのファンコミュニティだけだった。それを一切合切、自分から取り去ってしまったとき、いったい何が残るのだろうと少し不安だった。

 

 まあ、結論から言えば杞憂であった。友人とイカがサケを狩るゲームに興じたり、無難に大学の課題を進めたり、積ん読をちょっぴり消化したりと、怠惰なりにやることはそれなりにあった。

 

 別にVtuberは世界の全てじゃなかった。様々なものと置換できるものだし、多分、今回私が置換したものだって、何かと置換できるんだろう。

 

 それにホッとしている自分が居て、そんな自分が堪らなく憎たらしかった。自分が今まで情熱をかけてきたものをポイと捨ててしまえる自分が馬鹿らしくて、「推しのため」だなんだとキレイゴトを吐きながら、結局己のためじゃないかと心底呆れた。

 

 私は一体、Vtuberの何がそんなに好きで、何がそんなに不満だったんだろう。浮いた時間で、そんなことを考えていた。

 

怒りの矛先が行方不明

 冷静になってみれば、ここ最近の私がずっとイライラしていたのは、別に推しに対してでは無かった。

 じゃあ何だよ、という話なのだが、まあやっぱりファンコミュニティに対してじゃないかな、というのが一点。

 

 Vtuber界隈は敵が多い。某おっさんYoutuberがVtuberを感情的に叩きまくった件もあれば、女性Vtuberが男性Vtuberと絡んだだけで激怒するユニコーンのようなリスナー、Vtuberのゴシップを報じるVtuberという冷静に考えるとなんだそりゃというような存在、何故か知らんがVtuberを叩きたくて仕方がない人々…………

 

 身内も一般人も、同じオタクですらも敵だらけである。心無い中傷を見れば自分のことのように胸が痛み、激怒した。 だがしかし、私がいくら義憤に胸を焦がし、必死に弁舌を振るったところで、別に彼らは反省もしなければ活動を止めることもないだろう。彼らにとってはそれが正しいことで、何よりも優先すべきことなのだから。

 

 そんなわけで、行き場の無い怒りは同じリスナーに向いた。 「リスナー」ということを、コンテンツにしようとしている連中が嫌いだった。リスナーだから特別なのかよ、何でリスナーとして目立とうとしてるんだよ。浅い自己顕示欲が透けて見えて、そんなことのために「○○ちゃんが大好き!」というポーズをとっている連中が死ぬほど嫌いだった。

 

 女性Vtuberが男性Vtuberにリプライをしただけで、謎の怒りを燃やすユニコーンが居た。推しが注意喚起をしているのに、「分かった!」と言った口で同じことをしているやつがいた。マナーの悪いヤツなど、腐るほどいた。幼稚園からやり直せばいいと思っていた。

 

 そいつらをわざわざ吊るし上げているヤツも嫌いだった。「自分たちの界隈にはこんな危険人物がいますよー!」と大声で喧伝しているようなものだからだ。犯罪発生率が高い街に、誰が好き好んで住みたいと思うものか。

 

 ただ、それらに対して文句を付ける気にはならなかった。私が場外乱闘を起こしたところで、私に「札付き」という評判が付くだけで、別に全体の治安には何も貢献しないからである。

 

 溜め込んだ不満が最後に向かうのは、運営である。ファン界隈の治安が悪いのも、他の箱メンバーがどんどん活躍しているのに、推しがいまいち活躍出来ていないのも、革新的な企画が発表されないのも、全部運営のせいだ。

 

 まあ、運営は楽なサンドバックである。最近は不祥事もあったので叩く理由は十分にあり、企業である以上具体的に動いていることは明かせない。「実は何もやっていないんだろ!」と糾弾することは余りにも容易い。

 

……バカである。怒りの矛先をあちらこちらに振り回した挙句、最後には味方(のはず)のものに突き刺した。何がしたいんだろう。

 

物書きは無能である

 話は変わるが、私は物書き……の端くれにも引っかからないような何かだ。 小説家を志してペンを取ったのは今は昔。十万字の長編小説を書きあげられず、同人誌を出す体力もなく、アマチュアSS書きとして燻っている無能、それが私だ。

 

 そんな私は、Vtuberの二次創作を書くのが好きだった。最初は何年か振りに感じる鮮烈なインスピレーションに感動して、久々に楽しい気持ちを感じながら書いた。

 

 それがいつからだろう。二次創作を書くのが億劫になった。楽しい、という感情はどこかに置き忘れ、執筆中はひたすら苦しいと思った(楽しいときもあったけど)。ただ、書き続けていたのはそれが「推しの応援になる」と思っていたからだ。

 

 当たり前だが、実際はそうではない。

 イラストは確実にVtuberの応援になる。サムネに使え、アイコンやヘッダーになり、単純に「綺麗な絵」というだけで集客にもなる。

 音楽を作れる人もそうだ。配信BGMコンテストは不定期だが開催されているし、オリジナルソングなりイメージソングなりを作ることが出来る。

 Live2Dや3Dモデルを作ったり、動かす技術を持っている人だってそうだ。

 

 じゃあ、物書きはどこに貢献しているのだろう。

 

 どこでもない。どこでもないのだ。

 

 配信にはまず使えないだろう。むしろどこに使うんだ。集客効果もない。一般的な傾向として、現代人は活字が嫌いだ。

 

 要するに、物書きは推しへの貢献率が低い。それはもう、低い。

 

 薄々分かっていた。分かっていたが、どうしてもそれを認めることが出来なくて、「好きでやってることだから」などと言い訳を繰り返していた。

 

 「お前も絵を描けばいいだろ」

 

 正論である。それはとても正しい。だが、それにはどれだけの時間がかかるのだろう。ただでさえ、人より美的センスに劣る私だ。推しに直接貢献出来るようなレベルに達するには、いったい何年かかるのだろう。

 それなら、この界隈の物書きの中ではまあまあ、というレベルの物書きに安住している方が気が楽だった。

 

 Vtuberファンである以上、物書きで居ることに将来性は無い。かと言って、将来性のあるものを今さら0から、いやマイナスから始める気力もない。そんな怠惰な私だった。

 

「推し事」という言葉の意味

 私だって、初めは楽しかった。純粋な気持ちで推しを応援して、推しがビッグになれば我が事のように喜んだ。

 

 それがどうして、こんなことになっているのか。

 

 「推し疲れ」なる造語がある。多分、今の状態はそれに近い。疲れてしまったのだ、外からの悪意や身内の不祥事に心を擦り減らし、自分が無力であることを認識し続けることに。

 

 Vtuberのファン活動のことを、俗に「推し事」という。言うまでもなく、「お仕事」にかかっている。

 

 リスナーは平等だとよく言われるが、そんなもんは建前である。神絵師をはじめとする貢献度の高いリスナーは優遇される、そりゃ当たり前だ。

 配信者にだってキャパシティというものがある。何万人ものファンの全てを把握し、同様に扱うなど聖徳太子だって無茶だ。ただ配信を見てツイートしているだけの人々が、直接的な貢献度の高い人々より優先されないのは当然で、むしろ同じ扱いをしろ、という方が厚かましい話だろう。

 

 そんなわけで、リスナーは競うように貢献度を上げようとする。絵の腕を磨く、切り抜きの質を上げる、それが出来ないならせめて積極的に好きだということをアピールし、目に留まるようにする。そう、まるでそれが仕事であるかのように。いや、むしろ仕事よりも必死かもしれない。仕事は嫌々やる人が大半だが、何せそれは好きなことなのだから。

 

 それは自然なことだろう。誰だって好きな人には好かれたい。もっと自分に興味を持って欲しい。そもそも、そういった心理をアテにしているのが現在のVtuberのビジネスモデルだ。

 

 誰が悪いという話ではなかろう。"偶像"と"信仰者"というモデルである以上、こうなることはある意味必然だ。

 

 無理だとは思うが、一応警鐘を鳴らしておく。

 

 「推し事」は仕事じゃない。無理だと思ったらすぐ休め。無理をしたところで、リターンなんか得られるはずもない、それは仕方のないことだ。

 

これからのこと

 ここまで言っておいてアレだが、私は多分、この界隈から去ることはないだろう。否、去ることは出来ないと言っていい。

 自分の都合で推しを見捨てるほど薄情にはなり切れなかったし、何よりまだ自分自身が未練タラタラだった。何かのきっかけで推しが大躍進を遂げた時に急に戻ってきて、「ほらね、僕はやっぱり彼女はすごい人だと思っていたんだよ」などとしたり顔で語る嫌味なやつになるつもりもなかった。

 

 まあ、ただ、今までのような密度でVtuber界に関われるかといえばNOだ。もうこれ以上、おかしな事案に神経を擦り減らすのはゴメンだ。

 

 そも、今のVtuber業界、というよりも私が推している箱は先が見えない状態にある。コロナでスタジオが使えないというのもそうだが、全体目標が掲げられていないため、何がどう動いているのかさっぱり分からない。そのくせ、あちこちで問題ばかりが起きる。目隠しをされて手探りで前に進む中で、方々から悲鳴が聞こえているような形だ。

 

 もう疲れてしまった。多分、それは皆同じだ。そして大変申し訳ないのだが、私は一足先に休息に入る。疲労が取れるまでは、もう少しこのままでいたいと思う。

 

 もう少し状況が好転したら。何か心を熱くするようなイベントが始まったら。その時は、また全身全霊を懸けてここで遊ぶ気になるだろうか。

 

 分からない。私は何十万も居る量産型Vtuberオタクの一人で、そんなヤツが居ようと居なかろうと、大勢に影響は無い。それを受け入れられたら、私も「まともなファン」になれるのだろうか。

 

 そもそも、「まともなファン」とは、「正しいVtuberの応援の仕方」とは何なのだろう。少し前まで義憤の燃料だったそれは、酷く覚束ないもののように思える。

天神子兎音さまを布教したい

突然だが、歌は好きか諸兄!?

皆さまいかがお過ごしでしょうか。狛犬童子です。

外出自粛の影響で、必然的に多くの時間を自宅で過ごさざるを得ない今。退屈やコミュニケーション不足に苦しんでいる方も多いと思いますが、一方で新たなVtuberを知るチャンスであるとも言えましょう。

 

本日は、そんなVtuberの一人である天神子兎音さまを紹介したいと思います。私はぽんこつ信者としてかなり日が浅い部類でございますので、大目に見てくださいませ。

 

概要~マルチプレイヤーな噛み様~

www.youtube.com

早速本題に入っていきましょう。

 

天神 子兎音 (てんじん ことね)さまは2018年4月27日から活動されているVtuberで、京都出身の神様であらせられます。遠慮なく奉ろう。デザインはいとうのいぢ先生です。

京都出身であられるだけあって、ネイティブの関西弁の使い手でもあります。非常に可愛らしいお声と時折盛大に噛むことから、「噛み様」とあだ名されることもあるようです。正直めっちゃ可愛い、うん。

 

主にYoutubeニコニコ動画での動画配信を中心に活動しておられますが、NHKの『ガリベンガーV』に出演されたり、千代田区公認アンバサダーに就任されたりと、ネットだけに留まらずマルチな方面で活躍されているお方でもあります。

 

配信内容はマリオカートポケモン、あつ森といったゲーム配信の他、身体測定や竹馬、果てはスマートスピーカーとバトルしたりと非常に幅が広いのが特徴です。身体能力はとても高く、スタジオを破壊したりしておられました(ガチ)。ポケモンポニータをがっつり厳選する等、ゲームも相当やり込んでおられます。

 

 

そして……歌がとっても上手い。

 

とても上手い

めっちゃ上手い

すんごい上手い

 

そう、この神様、歌唱力が本当にハイレベルなのである。音楽にはそこまで明るくないので滅多なことは言えないが、それでもVtuber界では間違いなく頭一つ抜けた上手さを誇る。

 

普段の可愛らしい声からは想像も出来ないほど超かっこいいイケメンボイスや、穏やかで包み込むようなしっとりボイス、そして可愛さ全開ボイスとそりゃあもうバリエーション豊か。表現力も抜群に高く、ジャンルの違う様々な曲を完璧に歌い上げる。

 

正直言葉で語っても語り尽くせないので、一回子兎音さまの歌ってみた動画を是非とも見て欲しい。そのあとにいつものアーカイブを見ると二度おいしい。

 

え? 「再生リストの曲がたくさんあって、どれから聴けばいいのか分からない」?

 

そりゃあなた、好きな曲から聴けばいいんですよ。

 

なに? 「迷っちゃって決められない」?

 

は~~~~ 全くしょうがないな~~~~~~~ じゃ、おすすめを紹介しちゃおっかな~~~?????

 

はい、すみません。自分が紹介したかっただけです。

 

歌ってみた編

再生リストを見てもらえればわかるように、子兎音さまは非常に多くの楽曲の歌ってみたを投稿しておられます。今回はその中でも、私が個人的に好きなものを5つ紹介したいと思います。

 

シャルル

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まずは一曲目。ご存知『シャルル』。

2019年の締めくくりとして投稿された一曲で、切ない歌詞とメロディーが特徴。子兎音さまの素晴らしい表現力を味わえる珠玉の動画となっており、切なさの中に秘められた強さや熱情が滲み出る。

 

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2018年にはワンコーラスだけ歌ったverも投稿されているため、両方聴いてみると楽しい。

 

カミサマネジマキ

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ご存知ボーカロイドの名曲『カミサマネジマキ』。超かっこいい子兎音様その1。 

エッジの利いた歌い方と原曲が完璧にマッチしている。特にラストの『それではさよなら、またいつか』の歌い方がめっちゃかっこいい。緩急も絶妙、PVのクオリティも本家ばりとかっこいいところしかない。必見です。

 

ヒビカセ

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ボーカロイド枠。子兎音さまの表現力が光る逸品。

元々Vtuberらしい曲であるだけに、その親和性は抜群。PVもクールで素晴らしい。

原曲は悲しみ、寂寥感が強いが、子兎音さまはそれを尊重、踏襲しつつも底に秘められた熱情を強烈に表現。表題ともなっている『響かせ』をはじめとする僅かなフレーズでこちらをゾクリとさせてくる。無限に聴いていられる。

 

ぼうけんのしょがきえました!

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アメノセイさん(アメノセイ-AMENOSEI - YouTube)とのコラボ。

歌うまな二人が組んだというその事実だけでハイクオリティは約束されているようなものだが、今回の子兎音さまは超キュート。威厳を感じさせつつもポンコツな王様を熱演されておられる。『てへ!』の可愛さは異常。セイさんのヘタレ勇者にも注目だ。

 

太陽系デスコ

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ナユタン星人さんの名曲、『太陽系デスコ』

かわいい子兎音さまだと思うじゃん? 超イケボなんだなあこれが。

この溢れるパワー、絶対に相手をもぎ取るという力強さを感じる。子兎音さまのかっこいい歌声をノリノリで味わえるのでとてもオススメの一曲。元気が無い時に効く。

 

ただ君に晴れ

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ヨルシカさんの夏の終わりに聴きたい曲1位(私調べ)。

しっとりとした優しい歌声が胸に沁みる。透明感という言葉がこれ以上無いくらいに似合う。水の入った透明なガラス球を、青空に透かして眺めてるようなそんな気持ちになれる。『路地裏ユニバース』もめっちゃいいぞ。

 

ELECT

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サイバーな曲がめっちゃ似合う。和風もSFも合うとか、この神様最強じゃなかろうか。

方向性としては『ヒビカセ』に近い感じだが、こちらはよりクールで無機質に寄っている感じ。……かと思いきや、後半になるに従って徐々に感情が乗ってくる過程がすごい。じっくりと何度も聴き返したい一曲。

 

セツナトリップ

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これぞ理想のセツナトリップ。いや、冗談抜きで。

年頃の少女の感情の表現が本当に素晴らしい。諦めやヤケになったところ、冷静になったところ、ラストの吹っ切れたところなど感情がこれでもかと乗りまくっている。『飛べない わけない』のところとかほんとに最高。

となりける先生による可愛らしく、かつかっこよく描かれたPVにも注目だ。滅茶苦茶ノリノリになれる。

 

 

あれ、おかしいな。5曲紹介すると言ったはずなのに気付けば8曲紹介していた……。このままだと全曲レビューを始めかねないので、そろそろ終わりにします。

 

オリジナル曲編

子兎音さまはオリジナル曲を3曲持っている。どれもiTunesGoogle playなどで販売中なので、決断的に購入しよう。

 

フーアーユーなんて言わないで

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オリジナル曲第1弾。カラオケでも歌えるよ!

かっこよくて元気のいい子兎音さま。「これぞ子兎音さま!」という感じの名曲。コールの「こっとねーこっとねさまー!」が超気持ちいい。

ちなみに私はカラオケで歌いましたが、めちゃくちゃ難しくて敗北しました。これ完璧に歌えるってすごい。

 

アンダーワールドウタウタイ

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オリジナル曲第2弾。最高にクールな一曲。

閉塞的な世界を歌でぶん殴るような、とても元気になれる曲。毎朝電車に乗る前に聴いてました。

超かっこいい子兎音さまとクールなメロディー、そして「FAITH! FAITH!」のコールが素晴らしいんだほんと。コールしたいよぉ……

冗談抜きにオススメなので、是非購入されることを強く推奨します。250円、安い!(ダイマ

https://linkco.re/ary1ngSB

 

かごめ

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第3弾。かごめうたをモチーフとしつつ、それに対して強烈にNOを突きつける一曲。

一見悲愴なメロディーだが、攻撃的かつ反逆を強く訴えかけてくる歌詞と歌い方が特徴的である。『アンダーワールドウタウタイ』がシャウトなら、こちらは唇を強く噛みしめながら立ち上がり、相手を睨み付けるようなイメージです。どっちもちゅき。

 

そして……

 
6月6日にオリジナル曲第4弾登場!!!!!!!

 

この時点で神曲の予感しかしないけれど、座して待とう。楽しみ過ぎて脳が沸騰しそうだわ!!!

 

 

 

さて、いかがでしたでしょうか。子兎音さまの魅力が少しでも伝われば幸いです。みんなも子兎音さまの歌声を流しながら作業しようぜ!!!!!!!

 

www.youtube.com

kotone-tenjin.com

 

覇王十代とは何者だったのか

 先日、撮り溜めしていた遊戯王ベストデュエルセレクションを視聴中、覇王十代VSジム戦が始まった直後に、一緒に見ていた父がぽつりと呟いた。

 

 「結局、覇王って何なの?」

 

 そりゃ十代の心の闇でしょ、と私は返したが、父はなおも首を捻って続けた。

 

 「そうは言っても、ああなるもんなの?」

 

 まあ確かに。覇王十代は今までの十代とはあまりにもキャラクター性が違い過ぎる。「十代の心の闇」という一応の説明こそ為されていたが、十代があんな闇を抱えている描写はあまりなかったように見える。

 

 これを「ライブ感」だの「作者の人そこまで考えてないよ」だのと言った言葉で片付けてしまうのはあまりにも惜しいので、今回はそれについて少し掘り進めてみようと思う。

 

⒈ 十代の闇とは何か?

 改めて遊戯王GXを見直してみると、プロフェッサーコブラを初めとする海外組の来日からユベルとの俺とお前を超融合までは一連の流れであったことを思い出した。プロセスとしてはこうだ。

 

 プロフェッサーコブラユベルを復活させるために暗躍

 ↓

 ユベル、不完全ながら復活。異世界にデュエルアカデミアを転移

 ↓

 レインボードラゴンの力で異世界から帰還。ヨハンが置き去りに。

 ↓

 ヨハンを回収するために十代一行は再び異世界

 ↓

 〈暗黒界の狂王 ブロン〉の罠にハマり、仲間たちが生贄に。残った仲間たちからも身勝手な態度が原因で見捨てられる。これが原因で十代は覇王化。

 ↓

 ジムとオブライエンの献身により覇王化解除。

 ↓

 十代、酷く憔悴するもヘルカイザーの命を賭した激励により復活。

 ↓

 ユベルと超融合

 

 プロフェッサーコブラからしユベルが暗躍しており、その後の展開もどうもプロットは決まっていたように思える。

 

 だとすると、十代の心の闇を読み解くヒントはプロフェッサーコブラの刺客とのデュエルの中にありそうだ。

 

 十代の本質を突くようなデュエルといえば、この時期だと一つしかない。そう、113話の佐藤先生戦である。「佐藤先生って誰だよ」とお思いの方もいるだろうが、〈スカブ・スカーナイト〉の人と言えばお分かりいただけるだろうか。

 

 佐藤先生は元プロデュエリストのデュエルアカデミア講師だったが、十代が真面目に授業を聞かなかったせいで他の生徒もそれを真似するようになり、結果的に授業崩壊のような状態に追い込まれてしまう。彼はその原因である十代を憎悪し、デュエルを挑む。

 

 この時点で十代は三幻魔、光の結社と二度もアカデミアを魔の手から救っており、その影響力はもはやただの生徒と言い切るのは不可能なほどに拡大していた。十代を英雄視する生徒が出てくるのは当然の話であり、そんな彼が爆睡している授業など聞く価値もないと判断されるのも無理もない話である。

 

 十代はここまでそのカリスマ性によって仲間たちを引っ張ってきたが、その負の面が現れたケースだと言える。彼の後には人々が着いていく。その先が間違いだったとしても、断崖だったとしても。逆に言えば、「今までが上手くいっていただけ」なのかもしれない。

 

 十代の無責任さを糾弾する佐藤先生は、〈スカブ・スカーナイト〉の効果を発動。佐藤先生の叫びそのものとでもいうべき〈クライング・スカーナイト〉を召喚し、その効果で相打ち狙いのバーンを行うが、十代は〈コクーン・ヴェール〉でダメージを回避。結局デュエルは佐藤先生の自爆という形で幕を閉じる。

 

 ここで重要なのは十代はこのライフダメージを回避しまった点。佐藤先生の糾弾を受け止めるのではなく、それを受け流してしまった。更に十代は佐藤先生のライフポイントを0にしておらず、明確に彼の主張を打ち破れていない。

 

 ここで問題提起された十代のカリスマ性と、十代がそれを自覚的に運用していない、つまるところ身勝手であるという問題は、ブロン戦で最悪の形で実を結ぶ。

 

 ヨハンの身を案じるあまりスタンドプレーに走る十代は仲間たちの孤立を招き、結果として仲間たちは超融合の生贄とされてしまう。ブロンに激怒する十代。しかし、オブライエンとジムと約束したのにも関わらず、スタンドプレーに走ったのは間違いなく彼の責任である。その責任を無視して、身勝手な怒りを爆発させた十代は〈暗黒界の魔神 レイン〉をサンドバックにする。有名な「ぶっ倒しても!ぶっ倒して!」だ。このシーンでの十代は両の瞳が金色に染まっており、実質覇王化していたことが伺える。

 

 以上より、覇王十代とは何か、という問いに対しては「十代の身勝手さの化身」というアンサーが用意できることになる。

 

 そうなると、「なんで超融合完成させたかったの?」「ヨハンを助けることが目的なのに異世界に覇を唱えるとか言い始めたのはなんで?」という疑問にもある程度説明がつく。

 

 覇王十代は十代の反転、今風に言うならばオルタとでもいうべき存在であり、彼のカリスマ性とそれを利用する身勝手さをマイナスの方向に傾けたものである。

 

 覇王の行動には目的が無い。いや、異世界に覇を唱えるのが目的と言ってしまえばそうなのだが、それには明確な根拠な指針が全く存在しない。「身勝手」の極みだ。だからこそ覇王十代は十代の反転であり、十代の問題点をそのまま炙り出した存在=十代の心の闇なのだ。

 

⒉ ジムの説得は不発で、オブライエンが説得できた理由は何か

 ジムとオブライエンは共に十代を覇王から救い出そうと奮闘し、そのためのキーアイテムとして「オリハルコンの眼」という謎アイテムを使用したことで共通する。

 

 「オリハルコンの眼ってなんだよ」という疑問については多分答えが出ないので置いておくとして、ジムが失敗してオブライエンが成功した理由は、恐らく「自分の中の覇王に打ち勝った経験があるか」ではないかと思う。

 

 オブライエンの場合の覇王とは、すなわち「臆病さ」である。かのゴルゴ13も語っていたように、兵士が生き残るために必要なのは臆病さだ。オブライエンも現役の傭兵である以上それは身に染みて理解していたであろうし、劇中でもオブライエンは慎重に行動する様子が目立った。慎重とは裏を返せば臆病に他ならない。

 

 覇王十代の圧倒的な力に粉砕され、死亡した(してないけど)ジムと、友に友を救うことを託されたにも関わらず怖気づいて無様に逃げ出した自分。慎重さ、臆病さは自分が生き残るために大切なことだが、それが最悪の形で発露してしまった。

 

 オブライエンは自らを責め、そして〈海原の巫女〉たちとの交流によって恐怖心を克服する。劇中でも勇者と言われた通り、彼は自らの闇である臆病さを勇気に変えて覇王に挑んだ。デュエル結果こそ引き分けであったが、あれだけ怯えた超融合を発動されてなお諦めない姿を見せつけ、確かに十代を覇王の中から救い出してみせた。

 

 4期におけるミスターT戦において、他のメンバーはトラウマや将来への不安を突かれて敗北していたが、オブライエンの場合は「母親を見殺しにしたという偽の記憶を植え付ける」という手段で精神攻撃を仕掛けられたことからも、彼が己の闇を振り払った境地に達していたことが伺える。

 

⒊  ユベルと決着を付けるために必要だった道筋

 さて、オブライエンによって覇王を討ち取られ、解放された十代だが、自らの代名詞とでもいうべき融合を発動できなくなってしまう。

 

 このとき十代は、覇王として自らが行ってきた所業=自らの身勝手さが招いた末路を目の当たりにした。つまり、仲間の死と超融合のために築き上げた屍の山である。

 

 そして、彼が先導していたのは仲間たちや配下だけではない。デッキの中のモンスターたちもそうだ。彼の身勝手さによって「E・HERO」たちはその在り方を歪められ、「E-HERO」へと堕とされた。本来なら、人々を守るためのHEROを虐殺の道具へと貶めてしまった。

 

 アムナエルも語っていたように融合のカードは十代の象徴であり、彼の可能性のメタファーでもあった。だが、融合によって生み出される結果が必ずしも良いものとは言えない。その最悪の形が〈ダーク・フュージョン〉であり、「E-HERO」だ。それを自覚した十代は、自らの可能性である融合を恐怖し、使えなくなってしまったのだ。

 

 丸藤亮は十代が融合を使えなくなっていることを見抜き、彼を圧倒する。ヘルカイザーと化した亮もまた、自らの闇と相対した人物の一人だ。リスペクト・デュエルを掲げておきながら、その実、彼は自らの勝利を前提としていた。実際、カイザー時代の負け試合はカミューラ戦だけであり、それも人質という番外戦術によるものだった。そしてプロデビューを果たし、敗北を重ねる中で、彼は自らの根源的欲求である「勝ちたい」という思いに気付く。そこからヘルカイザーとなった亮は、貪欲なまでに勝利を求めるようになる。しかし、その本質が変わっていないのは実際に相対した天上院吹雪が語った通りである。

 

 十代をあっさりとワンキル確定の状況まで追いこんだヘルカイザーは、自らの身体が限界に達していることを察し、ユベルを最後の相手に指名する。序盤から中盤までは遊星にデュエルを進めるが、心臓が限界を迎えてしまってからは途端に劣勢となり、追い込まれる。

 

 だが、ここに来て〈パワー・ボンド〉によってヘルカイザー、否、丸藤亮のフェイバリットカードである〈サイバー・エンド・ドラゴン〉が降臨する。更に〈サイバネティック・ゾーン〉の効果により「最高の魂の輝き」として攻撃力16000という凄まじい数値を見せつけるも、〈パワー・ボンド〉の代償により敗北してしまう。

 

 この〈サイバー・エンド・ドラゴン〉にはさしものユベルも怯えの表情を見せ、十代と翔はその魂に涙を流した。そして、このデュエルをきっかけとして十代は再び融合、そして超融合を使う決意を固める。

 

 そして迎えたユベルとのデュエル。十代は覇王十代の力すらも完全に制御下に置き、〈超融合〉の発動対象を自分とユベルにすることによって文字通り一つとなり、和解を果たす。

 

 ユベルは徹頭徹尾、前世の縁という個人的な事情で動いていたキャラクターだ。今までのボスである影丸や斎王は世界を支配するためという大きな目的で動いており、それを打ち破る十代もまた英雄として誰かを先導する立場に立っていた。そういう意味で言えば、ユベルは初めて十代が出会った「個人として向き合わなければならない相手」であり、だからこそユベルとケリを付けるためには、無意識のうちに他の人を先導し、身勝手さによって振り回すという自らの罪を自覚する必要があった。ユベルと個人的に向き合うことそのものが、その罪を清算することにも繋がった。

 

 そして罪を自覚したからこそ、ユベルと融合してアカデミアに帰還した十代はレッド寮に閉じこもったのである。

 

 纏めると、覇王十代とは十代の罪=身勝手さ、無意識に人々を先導してしまうことの象徴である。ということを最終結論として本記事は終わりにしたいと思う。

 

五条悟を語らせてくれ:呪術廻戦

※本記事は単行本のネタバレが多分に含まれています! 未読の方は注意!!

 

 皆さんは五条悟という男をご存知だろうか。そう、あの五条悟である。ジャンプに連載されている漫画『呪術廻戦』に登場する五条悟だ。

 

 『最強』『主人公の師』『細身のイケメン』『目隠し』『飄々とした態度と熱い心』……

 

 そう、彼は大人気キャラとして成立するために必要なアイコンを全て保有した、文字通り最強の男だ。作者である芥見下々大先生のご自宅に送られたバレンタインチョコは、五条悟宛てが一番多かったというが、それもなるべくしてなったというべきか。

 

 正直に言って、私は五条悟があまり好きではなかった(過去形)。彼が格好いいのは事実だ。だがそれは主人公である聖人・虎杖悠仁や、己の定めたルールに従う友人・伏黒恵、頼りがいが半端じゃない女傑・釘崎野薔薇も同じである。

 

 彼らに限らず、『呪術廻戦』に登場する呪術師はみな、自らの信念を強く抱いている。それを貫く有様こそ『呪術廻戦』の醍醐味であると言っていい。

 

 だが、五条悟の目的・思想はかなり初期に開陳されたのに対し、その核となる理由が全く見えてこなかった。「腐った呪術界を刷新する」。それはいい。だが、どうして彼はそのような思想を抱くに至ったのか。

 

 例えば主人公・虎杖は「祖父の遺言」というキッカケ、そして学長の呪骸に殴られる中で見出した「生きざまで後悔したくない」という、呪術師として活動する理由がある。伏黒も、釘崎もそれは同じだ。

 

 だからこそ私は、五条悟があまり好きになれなかった。格好いいことは事実だと思っていたが。

 

 そんな私の考えの転機となったのが、最新巻である8・9巻、つまり、五条悟過去編である。渋谷決戦という大一番を控えたこのタイミングで差し込まれた、キーパーソンの過去編。我々の芥見先生が繰り出してきたそれは、文字通り必殺の一撃となって私を射抜いた。

 

 「五条悟、お前…………(クソデカ感情)」

 

 今回は8・9巻と以前の内容をリンクさせる形で、五条悟について語っていきたいと思う。

 

⒈ 夏油傑との関係性

 さて、過去編において最もフォーカスが当たったのは五条悟と夏油傑の関係性についてである。

 

 夏油傑は前日譚である0巻において登場し、同作のラスボスを務めた男だ。本編においても呪霊と手を組み、五条悟を封印すべく暗躍している(この本編に登場する夏油については後述する)。彼は非呪術師=一般市民のことを「薄汚い猿」と蔑む差別主義者で、そんな彼が過去編において「呪術は呪術師を守るためにある」などと宣ったときは、筆舌に尽くしがたい衝撃があった。

 

 一方、五条悟は現代と変わらずゴーイングマイウェイ。「弱い奴等に気を遣うのは疲れるよホント」などとコメントする様は一見0巻の夏油と立ち位置が反転したようにも見えるが、冷静に考えれば現代の五条悟は一般人に言及したことがない。五条悟の一般人に対するスタンスは、今も昔も変わっていないと見るのが正解だろう。

 

 さて、そんな二人は当然ソリが合わず喧嘩ばかりしているように見えて、夜蛾先生を弄り倒したり、星獎体の天内理子を護衛する任務で抜群のコンビネーションを見せたりと、親友と呼べる間柄だった。

 

 五条悟は星獎体護衛任務が開始する直前、夏油に向けて「俺達最強だし」と当然のように言った。夏油もまた、最終局面において天内理子に「私達は最強なんだ」と誇りと自信に満ちた表情で語っている。

 

 そう、この時点では確かに「俺『達』」が最強だった。だが、その関係性は終焉を迎える。

 

 天内理子を殺す依頼を受けた伏黒甚爾(以下、パパ黒)との交戦おいて、二人は文句の付けようが無い完全敗北を喫する。五条悟は徹底的に集中力を削がれた上で呪術的チャフというフェイントに引っかかり撃沈。夏油は奇襲によって天内理子を目の前でむざむざと殺害された上、最強の手持ち呪霊を破られた挙句「術式が危険だから」殺さないという辱めを受ける。

 

 最強と自負していた自分たちの敗北。しかも相手は呪術を持たない、今まで見下していた非術師。夏油のプライドはズタズタになったことだろう。

 

 それだけなら、よかった。

 

 五条悟はそれだけでは終わらなかった。臨死体験を経たことで呪術の核心を掴み、無下限呪術を完全に支配下においた彼は文字通り覚醒した。

 

 あれだけ圧倒されたパパ黒を軽く圧倒して殺害してのけ、一年後には当時と同じ状況だったとしても間違いなくパパ黒に勝てると言えるほど圧倒的な水準にまで進化していた。

 

 夏油傑は言う。「悟は"最強"になった」と。

 

 同等の存在、一般人とは違う高みにいると思っていた自分たち。五条悟は隔絶した次元にまで到達したのに対し、自分は一般人に敗北した。"最強"であったはずなのに、少女の未来一つ守れなかった。

 

 やがて、夏油傑は変節する。一般人の醜さ、五条悟へのコンプレックス、そして死に続ける仲間。そんな現状を打破することを誓った彼は、「猿は嫌いだ」という本音を選び、非術師を根絶しようと動き出す。

 

 そして対峙する二人。夏油は五条悟に問いかける。

 

 「君は五条悟だから最強なのか?」

 「最強だから五条悟なのか?」

 

 答えを咄嗟に返せない五条悟に対し、夏油は続ける。

 

「もし私が君になれたら、この馬鹿げた理想も地に足がつくと思わないか?」

 

 五条悟は変わっていない。確かに強くなったが、それは彼にとって重要なことではない。なのに、親友であったはずの男は言うのだ。「最強が先かお前が先か」と。

 

 そして、背を向けて去る夏油の背中を、五条悟は撃つことが出来なかった。

 

 その後、五条悟は幼少期の伏黒恵と会う。この時、一人称が「俺」から「僕」に変わっているのがにくい。当然、これは「年下にも怖がられにくい」と夏油から勧められたことを受けてのことだろう。

 

 幼い伏黒としばし語った後、五条悟は言うのだ。

 

 「強くなってよ。僕に置いていかれないくらい」

 

 きっと、五条悟は答えが出せなかったのだ。最強だから自分なのか、自分だから最強なのか。

 

 恐らくだが、五条悟は家庭環境に恵まれている。御三家の生まれ、そして六眼と無下限呪術をセットで持って生まれた最高峰の人材。親に可愛がられたことは想像に難くない。現に夏油との問答で「だからって親も殺すのかよ!」と言っている。つまり、五条悟は夏油と同様の結論に至ったとしても、両親は殺さないと言っているに等しい。

 

 五条悟の力は、血で受け継がれてきたものだ。例え五条悟に六眼が発現しなかったとしても、いずれ誰かが発現していたことだろう。

 

 故に、五条悟は断言できない。最強が先が自分が先か分からない。

 

 それでもなお、五条悟は最強であることを止めない。悩まない。何故ならその世界が心地よくて、それゆえに天上天下唯我独尊だから。

 

 そう考えると、なぜ彼が腐った呪術界を唾棄するのかも見えてくる。

 

 呪術界は散々指摘されているように、保身や世襲や見得だのに囚われている。だからこそ両面宿儺の器という、両面宿儺を消滅させる最高のカードを切れない。あまつさえ処刑しようとする。

 

 救えるものを救おうとしない。目の前で親友を魔道に落としてしまった五条悟は、それが許せない。

 

 そして、五条悟はその変革を自分一人では成し得ないことを知った。いや、恐らく彼はそれが出来るだけの力はあるのだ。上層部を皆殺しにして首を挿げ替えてしまえば解決する。だが、それでは夏油傑と同じだ。夏油傑の言い分を認めることになる。

 

 だからこそ彼は教師として、仲間を、将来有望な術師を鍛える道を選んだ。

 

 夏油も同様に、呪術師の仲間を集める道を選んだのは、皮肉というべきかなんというべきか。

 

 そして五条悟と夏油傑の関係は、夏油が五条悟の教え子である乙骨に敗北したことで幕を閉じる。致命傷を負った夏油は再起を図ろうとするも、それを読んでいた五条悟が現れてしまったことで完全に「詰む」。

 

 五条悟が夏油に引導を渡すとき、どんな顔をしていたのかは描かれていない。言えることは、夏油が一瞬真顔になったあとに思わず吹き出したこと、そして夏油の離反を知った五条悟は、いつもの飄々とした態度をかなぐり捨てるほどに狼狽したということだ。

 

 「呪術師なんだから、最後くらい呪いの言葉を吐けよ」

 

 誰よりも呪術師を愛した男は、呪術師の頂点である親友の手で終わりを迎えた。このとき、五条悟は何を想ったのだろうか。

 

⒉ 他者の呼び方は適正区別なんじゃないか説

 五条悟は基本的に他人を下の名前で呼ぶ。(例:「悠仁」、「恵」、「葵」など)

 この法則から外れている人物は確認できている限り以下3名。

 

・七海健人

伊地知潔

・天内理子

 

 最初は非術師と術師で呼び分けているのかな、と思ったが、七海でそれは矛盾する。

 

 逆に、下の名前呼びしている人物は誰か考えてみる。

・虎杖悠仁

・伏黒恵

・釘崎野薔薇

・狗巻棘

・禪院真紀

・東堂葵

・乙骨憂太(公的な場では乙骨呼び)

・庵歌姫

(パンダ、秤はフルネームが不明なので除外)

 

 こう見てみると、術師は名前呼びに偏っていて、むしろ七海がイレギュラーであることが分かる。

 

 五条悟の性格からすれば、「健人」呼びを嫌がるであろう七海を喜々として呼ぶことは想像に難くない。それ故に七海の苗字呼びはかなり浮いて見える。

 

 七海は五条悟が信頼を置く術師の一人にして、脱サラという異色の経歴を持つ。この脱サラ、という点にポイントがありそうだ。

 

 七海は優しい。改造人間に怒りを燃やし、「もうあの人一人でよくないですか?」というほどに五条悟にコンプレックスを抱き、自らの無力さを痛感して呪術師を止めたのに、パン屋のお姉さんの笑顔でまた呪術師に戻ってきてしまう。そして自らの死を確信したときには、「大勢の人から感謝はもう貰っている」と笑える人間である。

 

 「根赤」と評される虎杖の指南役として七海を当てたことからも、五条悟からの評価も「優しい人間」であることは間違いないと思われる。

 

 では、芥見先生公認の聖人である虎杖と七海では、いったい何が違うのだろうか。

 

 五条悟は虎杖をこう評した。

 

 「悠仁はさ、ココ(頭)がイカれてんだよね」

 

 虎杖悠仁は元一般人でありながら、必要とあれば躊躇いなく拳を振るう。そこに躊躇は存在しない。鎮圧することが目的であったとはいえ、友人の吉野順平をも容赦なく殴り飛ばしたことからもそれは伺える。

 

 一方、七海はそれが出来ない。改造人間と初めて交戦した際も、虎杖に交戦を止めるように言っている。もちろん、呪術師としての覚悟はあるから相手が例え人間であっても、罪がある人物なら迷うことはない。

 

 七海は、頭がイカれていない。

 

 つまるところ、五条悟が名前呼びをする人物=頭がイカれている=呪術師の資格がある。逆に苗字呼びをする人物は頭がイカれていない=一般人というように呼び分けているとしたら。

 

 七海に「お前はまだ戻れる」と暗に示しつつも、彼を重用しているのだとしたら。

 

 五条悟は、とんでもない人でなしなのではなかろうか。それがまた魅力的なんだけど。

 

おまけ:夏油傑は本物か?

 0巻及び8・9巻を読み直している最中、何か引っかかるものを感じた。

 そういえば、夏油傑、本編では一般人のことを一度も「猿」と呼んでいない。そこに気付くと立て続けにおかしなことを発見した。

 

 まず、五条悟も「悟」呼びじゃない。術師を殺害しないというポリシーがある(0巻で禪院真紀をほぼ殺害寸前まで追い込んでいるのに対し、パンダと棘は戦闘不能レベルで留めている。乙骨に関しては完全に殺す気だったが、逆に言えば目の前にぶら下げられた松本里香という最強のカードに飛びつき、ポリシーを曲げたことが敗因とも取れる)のに、本編では術師のタマゴである吉野順平、そして話が通じないとはいえ仮にも「家族」の一員である組屋柔造(変換が出てきませんでした)を平然と捨て駒にし、取引相手であるメカ丸を殺害しようと真人をけしかけている。なんなら高専襲撃時には高専生を殺害しようとする花見に対し、「いいけど」とまで言い放った。

 

 そも、五条悟が親友を殺すときに万が一生き残ってしまうような手加減をするか?

 

 というか、過去編で描かれた夏油傑は、「五条悟を封印する」というようなまどろこっしい手段はとらないように見える。

 

 来るべき渋谷決戦、真実が明かされる日は近い。(多分本誌ではもう明かされてるんだろうけど)

 

 

映画『ジョーカー』:ジョーカーの狂気を垣間見る瞬間

※ネタバレ全開でお送りします。ご注意ください。

 世間の流行に遅れること数週間、遂に映画『ジョーカー』を鑑賞した。

 ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本でも公開されるやいなや凄まじい大反響と賛否両論を呼んだ本作。SNSに流れてくるちょっとした感想をつまみ食いするだけでもかなりクォリティの高い作品であることは簡単に想像でき、鑑賞前の期待もかなり高かった。

 

 そして鑑賞後。私は言葉にできない複雑な気持ちを抱えて劇場を後にすることとなった。

 

 これは『ジョーカー』がB級映画だったとか、自分の中のジョーカー像と解釈違いを起こしたとかそういう話ではない。間違いなく本作は超一流の映画であったし、そもそも私はDCコミックス初心者だ。解釈違いも何もない。

 

 では、このモヤモヤした気持ちは一体何なのだろうか。

 

 本作の主人公は言わずと知れたスーパーヴィラン・ジョーカーだ。本作は彼のオリジンを描いたものであり、アーサー・フレックが徐々に狂気に堕ち、犯罪王子として覚醒するまでの物語である。

 

 序盤から中盤にかけて、貧困層であるアーサーの窮状がこれでもかと描写される。ピエロの仕事をすれば悪ガキに絡まれ、家では病気の母親の看護をしながら二人暮らし。突然笑いだしてしまう持病に悩まされながらも、カウンセラーはまともに話を聞いてくれない始末だ。そんな彼は少しでも辛さを和らげるために、妄想の世界に浸ることを趣味としている。

 

 そしてここが鑑賞後、考察を進めていく上での大きな障害となる。彼の妄想は極めてシームレスに現実世界の描写と切り替わるため、鑑賞する側の人間からすれば、どこまでが彼の妄想なのか判断に困る部分がある。シングルマザーのソフィーと交流を深めたことはアーサーの妄想であると劇中で明確にされていたが、それ以外は特に明かされない(ソフィーに関しては現れる場面があまりに唐突すぎるという違和感があったため、注意してみていればわりとすぐに気づくことができるが)。

 

 しかも本作のラストは精神病院に収監されたアーサー、いやジョーカーの姿で終わる。つまり、「本作そのものがアーカムアサイラムの中でジョーカーが考えた悪趣味なジョーク」である可能性も否定できないのだ。

 

 まさに虚実崩壊、どこからどこまでが作中世界における「現実」なのか分からない。

 

 作品全体に横たわる現実性の無さと、作中で描かれる人間の生々しいリアリティの矛盾。この不安定な足場に立たされたかのような感覚が、どうにも気持ちをぞわぞわさせる。

 

 リアリティと言えば、この作品に登場する一般人はどれも非常に生々しい。明確に「悪人」と呼べる人間は冒頭の悪ガキやアーサーに射殺された三人のサラリーマンくらいだが、業腹なことに彼ら程度の悪辣さは現実世界でもそこら中に転がっている。アーサーに対する偏見など、この作品における一般人は我々の感覚に極めて近いものを持っているように思える。

 

 で、問題のアーサーだ。彼はジョーカーに覚醒する前は明らかに善良な人間だったし、その境遇は悲惨の一言だ。なのに、なのに私はこれっぽちも彼に感情移入することも、同情することも出来ない。出来ない、というよりそういう類の感情が一切湧いてこないのだ。

 

 ジョーカーに対して共感できないのはともかく、アーサーに共感できないのはどうもにもおかしい。劇中、アーサーは「どこにも自分がいない気がしていた」と述べている。このような感覚は現代人なら誰でも覚えていておかしくないものであり、無論私もそれに悩まされたことがある。なのに彼にはまったく共感できない。

 

 ネット上の感想を見てみれば、「誰もがジョーカーになりうる」とか「ジョーカーのことが分かった気がする」といったようなものがそこそこ多い。本当にそうなのか?

 

 私は本作のジョーカーの感性は、理解できる、共感できる部分こそあれ、基本的にそれを「理解する」、あるいは「理解した気になる」ことは極めて危険なことだと思う。

 

 本作のジョーカーはマレーのショーに出演した際に、「政治には無関心」、「シンボルになるつもりはない」と断言している。彼はあくまで独りのコメディアンであり、群衆を扇動する気はない。にもかかわらず、人々はジョーカーを反体制の象徴として祀り上げる。

 

 アーサーがサラリーマン三人組を射殺したのも、ランドルを惨殺したのも、マレーを射殺したのも、全て「自分をバカにしたから」という極めて個人的な動機だ。この自分の決めたルールを順守する潔癖さはコミックスのジョーカーに通ずる部分がある。

 

 ジョーカーが望む望まないにかかわらず、彼の行動は大衆を動かしてしまう。彼が動かしてしまったのはゴッサムシティの住民だけではない。そう、映画を観た人々でさえも動かしてしまったのかもしれない。

 

 ジョーカーは「僕が道端で死んでいても、誰も気づかない」と言った。現に冒頭部、悪ガキに看板を奪われたアーサーを助けようとする人は誰もいない。そしてアーサーがサラリーマンを射殺すると、一転して彼を義賊のように扱い反体制の象徴とする(もっとも、ここではアーサーの顔が割れていなかったというのも大きいのだが)。

 

 ゴッサムシティの民衆はジョーカーに勝手な理想を投影する。それは映画を観た人々も同じだ。ジョーカーという存在に理想を透かし見て、勝手に理解した気になり勝手に同情する。誰も彼の本来の貌を知ろうともしないし、知ったところで自己投影が消えることはない。

 

 だから、彼はラストシーンでこう呟くのだ。

 

「ジョークを思いついてね」

「どんなジョーク?」

「…………理解できないさ」

 

 ジョーカーのジョークは誰にも理解できない。理解しようとしない。ジョーカーそのものを見つめようとするのは、世界にただ一人しかいない。ジョーカーが生まれたその日、同じ街。ジョーカーを模したピエロの仮面をかぶった暴徒に襲われ、両親を失った少年。彼が恐怖を力に変える闇の騎士になるかどうかは定かではないが、いずれなるのだろう。ジョーカーのコメディの相方は、彼一人しか成り得ないのだから。

 

 纏めよう。私は『ジョーカー』という映画そのものが、ジョーカーのジョークだと理解した。この映画を敢えて分類しようとすれば、そのカテゴリは間違いなく娯楽映画になる。だが、本作は笑えないし酷く悪趣味だ。まるでジョーカーのジョークのように。

 

 故に、共感も同情もしない。ジョーカーのジョークを理解しそれに爆笑するほど壊れてはいないし、ジョーカーに何かを投影するようなことはしたくない。

 

 最後に余談を一つ。ジョーカーが「ノック・ノック」のジョークを披露しようとしたとき、私は彼が自殺するつもりなのだと思っていた。マレーのショーで自殺すること、それこそが彼の考えたジョークなのだと。だが、ジョーカーは自分のネタ帳に記された、「この人生以上に"硬貨"な死を」というジョークを見てしまう。

 

 これは日本語だけだと意味が通らないな、と思ったので英文を探してきた。

 

    I hope my death makes more cents(sense) than my life.

 

  直訳すると「私は私の死が私の人生よりお金になる(意味ある)ものになることを望む」となる。この誰にも笑えないジョークを、自分の人生を喜劇だと言うジョーカーが見たとき彼は何を思ったのか。

 

 ただ、脳にこびりついたジョーカーの笑い声が響く。彼はいったい、何を笑っているのだろうか。

Vtuberがバーチャルである意味

 さて、この記事を読んでいる皆さんは、このような言説を見かけたことはないだろうか。

 

「最近のVtuberはバーチャルである意味がない。そしてそんな奴らが蔓延る原因を作ったのはファン層である」

 

 まあ、ここまで直接的に書いてあるのは少数だろうが、おおむねそれに近い言説は結構いろいろなところに転がっている。普遍的と言ってもいい。恐らく、Vtuberが認知され始めてから幾度となく繰り返されてきた話であろうし、多分これからも延々と続いていくだろう。「最近の若者はダメだ」と同じである。

 

 古いものが神格化されるのはよくあることだし(Vtuber界に関して言えば成立してからまだ5年も経っていないので、古いも何もないのだが、こういった現象はジャンルの成熟度合に関わらず発生するものだ)、こういった自分以外の人間を堕落していると思うことによって、逆説的に自分の中での自己の地位を高める手法はそれこそ誰しもやっていることなので特筆に値することはない。

 

 しかし、この言説を「はいはい、老害乙」で片付けてしまうのはそれこそ思考停止であるし、何より私の中のキモオタクくんが「許せないブヒ!」と暴れまわっている。というわけで、今回は私の中に潜むキモオタクくんをなだめつつ、「Vtuberがバーチャルという形態を取っている意味」について考察していきたいと思う。

 

 さて、まずVtuberとはVirtualとYoutuberを組み合わせた造語である。最初期は3Dモデルを使っていることが定義だったが、徐々にLive2Dを使う層が増え、もはや今では定義不能なほどに増加している。

 

 ここに詳しく突っ込んでいくと、もはや「バーチャルとは何か」のような哲学染みた話になってしまうので、とりあえずVtuberとは「顔出しせず、何らかのキャラクターを演じながらYoutubeを中心とした活動をする者」とでも定義しておこう。

 

 ここからが本題である。Vtuberがバーチャルという手段を選んでいることに対して意味はあるのか。普通のYoutuberではダメなのか。

 

 Vtuberの生放送において基本的なラインナップといえば、ゲーム実況と雑談である。言われてみれば、この二つは別にVtuberでなくとも出来るだろう。

 

 顔出ししたくないというのなら出さなければ良いし、声バレを恐れるならボイスチェンジャーを使えばいい。わざわざバーチャルモデルを使っているならば、それを最大限活かしたものでなければVtuberとは呼べないのではないか? 結局そういった連中をちやほやしているのは、ガワのアニメキャラだけ見ている薄っぺらいオタクなのではないか?

 

 とまあ、こんな具合である。この言説にも一理ある。確かに現実の身体を出してはいけないという制約がある以上、究極的にはVtuberの活動範囲というのは普通のYoutuberに劣る可能性がある。そしてそのディスアドバンテージを挽回するためには普通のYoutuberとは違った活動をする必要があり、それをやらないのは怠慢である、と受け取る人がいるのはわからんでもない。そういった人々にとっては、Vtuberをちやほやする我々は「甘やかしている」という認識になるのもわかる。

 

 だがちょっと待ってほしい。それ、本当に正しいですか?

 

 Vtuberの肝は中の人(以下、魂)が存在することである。ロールプレイ、ペルソナと言い換えてもいい。このロールプレイ、ペルソナの装着はTRPGのそれとはまた別物と言える。魂が衣装を纏っている状態とでも例えようか。

 

 Vtuberはそれぞれ設定を持つ。多種多様なそれを遵守するかどうかは完全に個人に委ねられており、全力で投げ捨てている者も少なくない。設定を完璧に演じる必要があるのは「キャラクター」であり、それは声優の仕事になるだろう。

 

 魂が一番しっくりくる状態でアバターを運用する。魂と外見の調和・融合。そして、それをリスナーが補強する。その調和した状態を信じる、肯定・応援することによって、バーチャルとしての実存性を高めていく。

 

 この過程によって新たなイメージが付与されていく場合も多い。それを取り込んで存在の一部とするか、調和を阻むノイズになるかは場合によって異なるので注意が必要だ。

 

 ようするに、Vtuberは三位一体であるのではなかろうか。魂・アバター・視聴者の認識による実存性。どれか一つが欠けてしまえば、それはYoutuberであったりVRchatであったり、キャラクターであったりと全く別種のカテゴリに移行してしまう。

 

 これは壮大な自己実現である。ヒトは天からの授かりものを返却し、自分の意思で「なりたい自分になれる」時代が来たと言ってもいいかもしれない。

 

 ちょっと大袈裟かもしれないが、これは「なぜアバターを使うのか」という問いのアンサーにもなる。そも、何かを演じるというのはそれなりの演技力が必要だ。演技力は特別技能のカテゴリに分類されるものであり、身一つで自分とは別の人間を演じることは凄まじく大変だ。それが出来るなら俳優になれる。アバターは言わばその演技力の補助、代替となるアイテムであり、ある程度の形が決まったアバターに合わせることで演技はかなりしやすくなるし、演技を投げ捨てた場合でもアバターを纏っているというだけで、それはつまり違う自分だ。

 

 まあ、これがエンターテインメント足りうるか、といえば結構怪しい話だ。他人の自己実現とかどうでもええわいという人もそれなりにいるだろう。しかしながら、この三位一体はエンターテインメントという形式でなければ成立し難い。実存性を確保するにはかなりの数の人数(信仰と言い替えてもいいかもしれない)が必要だからだ。そしてその信仰を得るツールとしてYoutubeを初めとする動画配信サイトは非常に相性がいい。多分VRchatで同じことをやろうとしても、あんまり上手くいかないんじゃないかな、という気がする。

 

 このエンターテインメントでなければ成立しない事象と、エンターテインメントそのもののズレを出来る限り調和、もしくは完全に一体化できるようにするのがマネジメントであり、運営サイドの仕事なのではなかろうか。

 

 話が脱線してきたので元に戻ろう。結論を言えば、Vtuberがバーチャルである意味は確かに存在し、Youtuberとは別種の存在であることはまた確かである。つまり、VtuberVtuberというジャンルとして成立した時点で、バーチャルというツールを使ったことに意味は存在する。

 

 これは個人の考えだが、この三位一体があればVtuberは何をやってもVtuberだと思う。そこに奇をてらう必要は無いし、自分がVtuberとして正しいのかどうかを思い悩む必要もない。

 

 好きなことを、好きなようにやってほしい。それこそがバーチャルである意味なのだから。