Vtuberがバーチャルである意味
さて、この記事を読んでいる皆さんは、このような言説を見かけたことはないだろうか。
「最近のVtuberはバーチャルである意味がない。そしてそんな奴らが蔓延る原因を作ったのはファン層である」
まあ、ここまで直接的に書いてあるのは少数だろうが、おおむねそれに近い言説は結構いろいろなところに転がっている。普遍的と言ってもいい。恐らく、Vtuberが認知され始めてから幾度となく繰り返されてきた話であろうし、多分これからも延々と続いていくだろう。「最近の若者はダメだ」と同じである。
古いものが神格化されるのはよくあることだし(Vtuber界に関して言えば成立してからまだ5年も経っていないので、古いも何もないのだが、こういった現象はジャンルの成熟度合に関わらず発生するものだ)、こういった自分以外の人間を堕落していると思うことによって、逆説的に自分の中での自己の地位を高める手法はそれこそ誰しもやっていることなので特筆に値することはない。
しかし、この言説を「はいはい、老害乙」で片付けてしまうのはそれこそ思考停止であるし、何より私の中のキモオタクくんが「許せないブヒ!」と暴れまわっている。というわけで、今回は私の中に潜むキモオタクくんをなだめつつ、「Vtuberがバーチャルという形態を取っている意味」について考察していきたいと思う。
さて、まずVtuberとはVirtualとYoutuberを組み合わせた造語である。最初期は3Dモデルを使っていることが定義だったが、徐々にLive2Dを使う層が増え、もはや今では定義不能なほどに増加している。
ここに詳しく突っ込んでいくと、もはや「バーチャルとは何か」のような哲学染みた話になってしまうので、とりあえずVtuberとは「顔出しせず、何らかのキャラクターを演じながらYoutubeを中心とした活動をする者」とでも定義しておこう。
ここからが本題である。Vtuberがバーチャルという手段を選んでいることに対して意味はあるのか。普通のYoutuberではダメなのか。
Vtuberの生放送において基本的なラインナップといえば、ゲーム実況と雑談である。言われてみれば、この二つは別にVtuberでなくとも出来るだろう。
顔出ししたくないというのなら出さなければ良いし、声バレを恐れるならボイスチェンジャーを使えばいい。わざわざバーチャルモデルを使っているならば、それを最大限活かしたものでなければVtuberとは呼べないのではないか? 結局そういった連中をちやほやしているのは、ガワのアニメキャラだけ見ている薄っぺらいオタクなのではないか?
とまあ、こんな具合である。この言説にも一理ある。確かに現実の身体を出してはいけないという制約がある以上、究極的にはVtuberの活動範囲というのは普通のYoutuberに劣る可能性がある。そしてそのディスアドバンテージを挽回するためには普通のYoutuberとは違った活動をする必要があり、それをやらないのは怠慢である、と受け取る人がいるのはわからんでもない。そういった人々にとっては、Vtuberをちやほやする我々は「甘やかしている」という認識になるのもわかる。
だがちょっと待ってほしい。それ、本当に正しいですか?
Vtuberの肝は中の人(以下、魂)が存在することである。ロールプレイ、ペルソナと言い換えてもいい。このロールプレイ、ペルソナの装着はTRPGのそれとはまた別物と言える。魂が衣装を纏っている状態とでも例えようか。
Vtuberはそれぞれ設定を持つ。多種多様なそれを遵守するかどうかは完全に個人に委ねられており、全力で投げ捨てている者も少なくない。設定を完璧に演じる必要があるのは「キャラクター」であり、それは声優の仕事になるだろう。
魂が一番しっくりくる状態でアバターを運用する。魂と外見の調和・融合。そして、それをリスナーが補強する。その調和した状態を信じる、肯定・応援することによって、バーチャルとしての実存性を高めていく。
この過程によって新たなイメージが付与されていく場合も多い。それを取り込んで存在の一部とするか、調和を阻むノイズになるかは場合によって異なるので注意が必要だ。
ようするに、Vtuberは三位一体であるのではなかろうか。魂・アバター・視聴者の認識による実存性。どれか一つが欠けてしまえば、それはYoutuberであったりVRchatであったり、キャラクターであったりと全く別種のカテゴリに移行してしまう。
これは壮大な自己実現である。ヒトは天からの授かりものを返却し、自分の意思で「なりたい自分になれる」時代が来たと言ってもいいかもしれない。
ちょっと大袈裟かもしれないが、これは「なぜアバターを使うのか」という問いのアンサーにもなる。そも、何かを演じるというのはそれなりの演技力が必要だ。演技力は特別技能のカテゴリに分類されるものであり、身一つで自分とは別の人間を演じることは凄まじく大変だ。それが出来るなら俳優になれる。アバターは言わばその演技力の補助、代替となるアイテムであり、ある程度の形が決まったアバターに合わせることで演技はかなりしやすくなるし、演技を投げ捨てた場合でもアバターを纏っているというだけで、それはつまり違う自分だ。
まあ、これがエンターテインメント足りうるか、といえば結構怪しい話だ。他人の自己実現とかどうでもええわいという人もそれなりにいるだろう。しかしながら、この三位一体はエンターテインメントという形式でなければ成立し難い。実存性を確保するにはかなりの数の人数(信仰と言い替えてもいいかもしれない)が必要だからだ。そしてその信仰を得るツールとしてYoutubeを初めとする動画配信サイトは非常に相性がいい。多分VRchatで同じことをやろうとしても、あんまり上手くいかないんじゃないかな、という気がする。
このエンターテインメントでなければ成立しない事象と、エンターテインメントそのもののズレを出来る限り調和、もしくは完全に一体化できるようにするのがマネジメントであり、運営サイドの仕事なのではなかろうか。
話が脱線してきたので元に戻ろう。結論を言えば、Vtuberがバーチャルである意味は確かに存在し、Youtuberとは別種の存在であることはまた確かである。つまり、VtuberがVtuberというジャンルとして成立した時点で、バーチャルというツールを使ったことに意味は存在する。
これは個人の考えだが、この三位一体があればVtuberは何をやってもVtuberだと思う。そこに奇をてらう必要は無いし、自分がVtuberとして正しいのかどうかを思い悩む必要もない。
好きなことを、好きなようにやってほしい。それこそがバーチャルである意味なのだから。