狛犬瓦版

趣味について書くブログ

Vtuberオタクとしての自分から少し離れてみた

 何の前触れも無く、タイヤがパンクした。 

 

 タイヤと言っても現実の車の話ではなく、私のモチベーションに生えているタイヤである。それが先日、バチンと綺麗に弾けた。

 

 夜中にTwitterをしているとき、私はふと、今の自分を振り返ってみた。ホーム画面に戻り、自分のツイートを読み直す。するとまあ、酷いことになっていた。

 

 推しと推しが所属する箱への不満が止まらない。それはもう破砕帯から噴出してくる水かよ、と言った具合で、グチグチと不平不満を垂れ流していた。今流行りの『鬼滅の刃』風に言えば、「心の中の幸せを入れる箱に穴が開いてる」状態だった。推しに対しての不満は、まだ冷静さを保てていたのが不思議なほどだ。付き合ってくれていた友人たちには、感謝しかない。

 

 こりゃダメだ、と思った。このままでは、確実に厄介野郎かアンチの仲間入りである。このままスッパリとV界隈から去ることも考えたが、それはどうしても出来なかった。ただ、このまま居続けても良い結果にはならないので、少し距離を置こうと思った。

 

 とりあえず、TwitterのVアカのTLは覗かないようにした。推しのツイート通知だけはONのままだったが、まあ甘さというか決意の緩さである。Youtubeも一切触らなかった。動画を見たいな、と思えばAmazon primeなりがあったし、音楽が聴きたければ自分で買えばいい。

 とにかく、自分の日常からVtuberをシャットアウトした。Vtuberをハマる前の自分に戻ろうと思った。

 

 結構キツイだろうな、と初めは思っていた。ここ最近の私にとって、世界の半分くらいはVtuberとそれに付随するもので回っていたし、私が属している世界は殆どそのファンコミュニティだけだった。それを一切合切、自分から取り去ってしまったとき、いったい何が残るのだろうと少し不安だった。

 

 まあ、結論から言えば杞憂であった。友人とイカがサケを狩るゲームに興じたり、無難に大学の課題を進めたり、積ん読をちょっぴり消化したりと、怠惰なりにやることはそれなりにあった。

 

 別にVtuberは世界の全てじゃなかった。様々なものと置換できるものだし、多分、今回私が置換したものだって、何かと置換できるんだろう。

 

 それにホッとしている自分が居て、そんな自分が堪らなく憎たらしかった。自分が今まで情熱をかけてきたものをポイと捨ててしまえる自分が馬鹿らしくて、「推しのため」だなんだとキレイゴトを吐きながら、結局己のためじゃないかと心底呆れた。

 

 私は一体、Vtuberの何がそんなに好きで、何がそんなに不満だったんだろう。浮いた時間で、そんなことを考えていた。

 

怒りの矛先が行方不明

 冷静になってみれば、ここ最近の私がずっとイライラしていたのは、別に推しに対してでは無かった。

 じゃあ何だよ、という話なのだが、まあやっぱりファンコミュニティに対してじゃないかな、というのが一点。

 

 Vtuber界隈は敵が多い。某おっさんYoutuberがVtuberを感情的に叩きまくった件もあれば、女性Vtuberが男性Vtuberと絡んだだけで激怒するユニコーンのようなリスナー、Vtuberのゴシップを報じるVtuberという冷静に考えるとなんだそりゃというような存在、何故か知らんがVtuberを叩きたくて仕方がない人々…………

 

 身内も一般人も、同じオタクですらも敵だらけである。心無い中傷を見れば自分のことのように胸が痛み、激怒した。 だがしかし、私がいくら義憤に胸を焦がし、必死に弁舌を振るったところで、別に彼らは反省もしなければ活動を止めることもないだろう。彼らにとってはそれが正しいことで、何よりも優先すべきことなのだから。

 

 そんなわけで、行き場の無い怒りは同じリスナーに向いた。 「リスナー」ということを、コンテンツにしようとしている連中が嫌いだった。リスナーだから特別なのかよ、何でリスナーとして目立とうとしてるんだよ。浅い自己顕示欲が透けて見えて、そんなことのために「○○ちゃんが大好き!」というポーズをとっている連中が死ぬほど嫌いだった。

 

 女性Vtuberが男性Vtuberにリプライをしただけで、謎の怒りを燃やすユニコーンが居た。推しが注意喚起をしているのに、「分かった!」と言った口で同じことをしているやつがいた。マナーの悪いヤツなど、腐るほどいた。幼稚園からやり直せばいいと思っていた。

 

 そいつらをわざわざ吊るし上げているヤツも嫌いだった。「自分たちの界隈にはこんな危険人物がいますよー!」と大声で喧伝しているようなものだからだ。犯罪発生率が高い街に、誰が好き好んで住みたいと思うものか。

 

 ただ、それらに対して文句を付ける気にはならなかった。私が場外乱闘を起こしたところで、私に「札付き」という評判が付くだけで、別に全体の治安には何も貢献しないからである。

 

 溜め込んだ不満が最後に向かうのは、運営である。ファン界隈の治安が悪いのも、他の箱メンバーがどんどん活躍しているのに、推しがいまいち活躍出来ていないのも、革新的な企画が発表されないのも、全部運営のせいだ。

 

 まあ、運営は楽なサンドバックである。最近は不祥事もあったので叩く理由は十分にあり、企業である以上具体的に動いていることは明かせない。「実は何もやっていないんだろ!」と糾弾することは余りにも容易い。

 

……バカである。怒りの矛先をあちらこちらに振り回した挙句、最後には味方(のはず)のものに突き刺した。何がしたいんだろう。

 

物書きは無能である

 話は変わるが、私は物書き……の端くれにも引っかからないような何かだ。 小説家を志してペンを取ったのは今は昔。十万字の長編小説を書きあげられず、同人誌を出す体力もなく、アマチュアSS書きとして燻っている無能、それが私だ。

 

 そんな私は、Vtuberの二次創作を書くのが好きだった。最初は何年か振りに感じる鮮烈なインスピレーションに感動して、久々に楽しい気持ちを感じながら書いた。

 

 それがいつからだろう。二次創作を書くのが億劫になった。楽しい、という感情はどこかに置き忘れ、執筆中はひたすら苦しいと思った(楽しいときもあったけど)。ただ、書き続けていたのはそれが「推しの応援になる」と思っていたからだ。

 

 当たり前だが、実際はそうではない。

 イラストは確実にVtuberの応援になる。サムネに使え、アイコンやヘッダーになり、単純に「綺麗な絵」というだけで集客にもなる。

 音楽を作れる人もそうだ。配信BGMコンテストは不定期だが開催されているし、オリジナルソングなりイメージソングなりを作ることが出来る。

 Live2Dや3Dモデルを作ったり、動かす技術を持っている人だってそうだ。

 

 じゃあ、物書きはどこに貢献しているのだろう。

 

 どこでもない。どこでもないのだ。

 

 配信にはまず使えないだろう。むしろどこに使うんだ。集客効果もない。一般的な傾向として、現代人は活字が嫌いだ。

 

 要するに、物書きは推しへの貢献率が低い。それはもう、低い。

 

 薄々分かっていた。分かっていたが、どうしてもそれを認めることが出来なくて、「好きでやってることだから」などと言い訳を繰り返していた。

 

 「お前も絵を描けばいいだろ」

 

 正論である。それはとても正しい。だが、それにはどれだけの時間がかかるのだろう。ただでさえ、人より美的センスに劣る私だ。推しに直接貢献出来るようなレベルに達するには、いったい何年かかるのだろう。

 それなら、この界隈の物書きの中ではまあまあ、というレベルの物書きに安住している方が気が楽だった。

 

 Vtuberファンである以上、物書きで居ることに将来性は無い。かと言って、将来性のあるものを今さら0から、いやマイナスから始める気力もない。そんな怠惰な私だった。

 

「推し事」という言葉の意味

 私だって、初めは楽しかった。純粋な気持ちで推しを応援して、推しがビッグになれば我が事のように喜んだ。

 

 それがどうして、こんなことになっているのか。

 

 「推し疲れ」なる造語がある。多分、今の状態はそれに近い。疲れてしまったのだ、外からの悪意や身内の不祥事に心を擦り減らし、自分が無力であることを認識し続けることに。

 

 Vtuberのファン活動のことを、俗に「推し事」という。言うまでもなく、「お仕事」にかかっている。

 

 リスナーは平等だとよく言われるが、そんなもんは建前である。神絵師をはじめとする貢献度の高いリスナーは優遇される、そりゃ当たり前だ。

 配信者にだってキャパシティというものがある。何万人ものファンの全てを把握し、同様に扱うなど聖徳太子だって無茶だ。ただ配信を見てツイートしているだけの人々が、直接的な貢献度の高い人々より優先されないのは当然で、むしろ同じ扱いをしろ、という方が厚かましい話だろう。

 

 そんなわけで、リスナーは競うように貢献度を上げようとする。絵の腕を磨く、切り抜きの質を上げる、それが出来ないならせめて積極的に好きだということをアピールし、目に留まるようにする。そう、まるでそれが仕事であるかのように。いや、むしろ仕事よりも必死かもしれない。仕事は嫌々やる人が大半だが、何せそれは好きなことなのだから。

 

 それは自然なことだろう。誰だって好きな人には好かれたい。もっと自分に興味を持って欲しい。そもそも、そういった心理をアテにしているのが現在のVtuberのビジネスモデルだ。

 

 誰が悪いという話ではなかろう。"偶像"と"信仰者"というモデルである以上、こうなることはある意味必然だ。

 

 無理だとは思うが、一応警鐘を鳴らしておく。

 

 「推し事」は仕事じゃない。無理だと思ったらすぐ休め。無理をしたところで、リターンなんか得られるはずもない、それは仕方のないことだ。

 

これからのこと

 ここまで言っておいてアレだが、私は多分、この界隈から去ることはないだろう。否、去ることは出来ないと言っていい。

 自分の都合で推しを見捨てるほど薄情にはなり切れなかったし、何よりまだ自分自身が未練タラタラだった。何かのきっかけで推しが大躍進を遂げた時に急に戻ってきて、「ほらね、僕はやっぱり彼女はすごい人だと思っていたんだよ」などとしたり顔で語る嫌味なやつになるつもりもなかった。

 

 まあ、ただ、今までのような密度でVtuber界に関われるかといえばNOだ。もうこれ以上、おかしな事案に神経を擦り減らすのはゴメンだ。

 

 そも、今のVtuber業界、というよりも私が推している箱は先が見えない状態にある。コロナでスタジオが使えないというのもそうだが、全体目標が掲げられていないため、何がどう動いているのかさっぱり分からない。そのくせ、あちこちで問題ばかりが起きる。目隠しをされて手探りで前に進む中で、方々から悲鳴が聞こえているような形だ。

 

 もう疲れてしまった。多分、それは皆同じだ。そして大変申し訳ないのだが、私は一足先に休息に入る。疲労が取れるまでは、もう少しこのままでいたいと思う。

 

 もう少し状況が好転したら。何か心を熱くするようなイベントが始まったら。その時は、また全身全霊を懸けてここで遊ぶ気になるだろうか。

 

 分からない。私は何十万も居る量産型Vtuberオタクの一人で、そんなヤツが居ようと居なかろうと、大勢に影響は無い。それを受け入れられたら、私も「まともなファン」になれるのだろうか。

 

 そもそも、「まともなファン」とは、「正しいVtuberの応援の仕方」とは何なのだろう。少し前まで義憤の燃料だったそれは、酷く覚束ないもののように思える。