大人になんてなりたくない~天神子兎音さま新曲『Erase』鑑賞レポート~
大人になるということは、妥協するということだ。
幼い頃は誰しも、未来に希望を抱いている。どんなことをして働こう、どんな大人になって、どんな素敵な夢を叶えよう。
この世界は無限の可能性に溢れていて、どこだって行ける、なんだって出来ると無邪気に信じていた。
やがて成長するに従って、夢は少しずつ色褪せ、輝きを失っていく。
自分は選ばれた主人公ではない。
夢を叶えることが出来るのはほんの一握りであり、それは少なくとも自分ではない。
夢とか希望とか、そういった大切なものを誰かに売り渡し、代わりに安定と社会的地位を購入する。そうしていつの間にか、あれだけ馬鹿にしていた「つまらない大人」に成り果てている。
天神子兎音さまのオリジナル曲第4弾として発表された『Erase』は、そんな誰かの気持ちを歌った曲だ。
『忘れましょう 全部 神隠し 消してしまうの あやまちを 取り繕うように』という歌い出しから始まる本楽曲は、どことなく攻撃的なメロディーとは対照的に、全体的に乾いた絶望と悲鳴に満ちている。
薄っぺらな親切を貼りつけた誰かに対する苛立ちと、「欲しがった未来」を諦めている自分への失望。
前作『かごめ』は名前の通り「かごめかごめ」をモチーフとし、同調圧力に屈して顔の無い誰かに屈することを全身全霊で否定する歌だった。前作では『大人になれなくても 晒せ 晒せ 本当の自分を貫くよ』と力強く歌い上げていたのとは対照的に、今作では『大人なら 成らなくていい』と呟くように歌っているのも特徴的だ。
仕方がない、と諦めることは現代において必須スキルだと言っていい。大切にしていた夢を追いかけているだけでは、生きていけない。
宝物から目を逸らして、ただ日々を生きるために自分をすり減らしていく。そんなことは珍しくもなんともない。
そんな様子は、「かくれんぼ」に喩えられている。ここで隠れているのは昔の夢、欲しがった未来だ。そして鬼は自分自身。
当たり前の話だが、かくれんぼは鬼に探す気が無ければ成立しないゲームだ。探す気があったとしても、隠れた方を発見することが出来なければ永遠にゲームは終わらない。恐らく、昔のかくれんぼでは隠れた子を発見できず、そのまま何らかの理由で行方不明となってしまうこともあっただろう。まるで神隠しのように。
そして現代に生きる我々は「鬼」としての役割を果たす気が無い、もしくは果たせない。永遠に見つけられない隠したモノは、初めから無かったのと同じ。つまり消去=Eraseである。
だが、残念ながら隠すと消すはイコールにはならない。鬼に探す気がなかろうと、隠したことすら忘れていようと、無かったことにしたかろうと、そこにあるという現実は変わることが無い。
最後のパート、『数えましょう 参 弐 で捕まえて 己れの意志を 目を逸らしてしまわないように』という部分は、消し去ったはずの何かと再び向き合う様子を示している。
子兎音さまのオリジナル曲は、第1弾の『フーアーユーなんて言わないで』を除き、その全てが「反逆」の歌だ。つまらない今、顔の無い誰かに対する反抗。それらが核にあった。
しかし『Erase』は徹底的に内に向かう曲だ。自分の心の奥深くに隠した、幼い頃の夢ともう一度向かい合う曲だ。
Eraseとは、拭い去るを意味する単語だ。どれだけ強く拭いても消えないものはある。そして、それに気付くことは自分にしかできない。
全肯定してくれるわけでも甘えさせてくれるわけでもないが、この曲は温かいエールだと感じた。
隠された夢をもう一度見つけたところで、それが叶うとは限らない。むしろ、叶わないことの方が多いだろう。しかし、己の本心から目を逸らして腐り続けるよりは、原点に立ち返って前を向くほうが、「生きている」と言えるのではないだろうか。
この記事を読んだ皆さんも、『Erase』を聴きながら夢に想いを馳せてみてはいかがだろうか。