戦闘妖精・雪風、帰還
その日、SFファンの間に激震が走った。神林長平著『戦闘妖精雪風』、4部開幕。
!?!?!?!?!???!!!!!!
まさか、と目を疑った。本当に?と裏取りを進めた。だが厳然たる事実として横たわる『戦闘妖精雪風』4部が、SFマガジン2020年2月号から連載されるという告知。
最高じゃないか……祭りの始まりだ。我々はこの時を待ち望んでいた。
とまあキリストの復活の如き大盛り上がりだったわけなのだが、本記事は簡単に言えば『戦闘妖精・雪風』の薦めである。
正直、この記事でどこまで触れていいのかかなり悩んだ。神林長平作品に触れるなら、何も事前知識が無いまっさらな状態でいてほしい。そして己の人生観をミキサーにかけられてほしい。が、そんなことを言ってホイホイ突っ込んでくるのは変態しかいない。そしてそんな変態は既に神林長平は履修済みだ。
この記念すべき祭りの前に、一人でも多くの無垢な人々をSF沼に沈めたい……複雑怪奇なロジックに翻弄され、それを理解して自らの栄養にする喜びを味わってもらいたい……そんな邪悪極まりない想いが私を支配する。
何? この時点でもう読みたくなってきた? なるほど、貴様には見どころがある。こんな記事を読んでいないで、今すぐ近所の古本屋に走るか通販サイトでポチるか、電子書籍を買うといい。魅惑の世界が貴様を手招きしているぞ。
まだ興味がわかないという正常な判断力を持っているそこの君。プラウザバックをしようとするのはちょっと待ってほしい。まあそこにでも座ってくれたまえ、そう、そこ。今飲み物でも持って来よう。何、夜は長いんだ安心してくれ。
さて、どこまで話した? ああそう、OKOK。
『戦闘妖精・雪風』は1979年から1983年にかけて連載され、1984年に文庫本として出版された作品だ。ドラマCD化、アニメ化などの一通りのメディアミックスはこなした歴戦の勇者でもある。この時点で一定の面白さは保証されたようなものだろう。
肝心のあらすじであるが、気になる人はWikipediaを読んでもらうのが一番手っ取り早いと思う。かなりよく纏まっている。私は『戦闘妖精・雪風』は一切の事前情報無しで読むのが最高の読書体験になると思っているので、敢えてあらすじを紹介しない&触れない方針で話を進めていきたい。
『雪風』はSFものなので、超技術の類がそれはもう大量に登場する。SF界にはいわゆる流行り廃りのようなものがあって、作品に登場する超技術は当時の未来予測に基づくものがほとんどだ。そのため、今の視点から見ると「そりゃないよ」という荒唐無稽なものになっていることも多々ある(それが作品の出来そのものに直結するかどうかは、また別の話である)のだが、『雪風』が示した未来予測は驚くほど今考えられているものに近い。1979年に執筆開始されたという事実を知ったとき、「嘘だろ」という感想しか出ないほどだ。正直、神林長平が未来人だったとしても驚かないレベルである。
そしてこの緻密なSF設定に基づいた物語は、我々読者の想像を遥かに超えた方向へと飛んでいく。自己と他者の定義、全く異なる知的存在とのコンタクト、つまり自我とは一体何なのか。第三部にして現段階での最終章である『アンブロークン・アロー』のラストシーンの美しさは、もはや小説媒体として表現できる限界値を遥かに突破している。
この美しさを表現する言葉を私は持たない。
私は『アンブロークン・アロー』の美しさに完全に心奪われ、これで完結したとさえ思っていた。それほどまでに『戦闘妖精・雪風』という作品、ひいては神林長平という作家の全てが濃密に凝縮された作品だった。人間一人の人生観全てを圧縮したものと言っても過言ではない。
そしてそれの続編たる4部の幕が遂に開く。私は神林長平が私の貧弱な想像力を軽く飛び越えていく作家だということを知っている。あれほど完璧に仕上がった『アンブロークン・アロー』を超える高みを見せてくれる。その喜びに今からワクワクが止まらない。
おかえり、雪風。おかえり、深井零。私はずっとあなたたちを待っていた。
とまあ、本当に申し訳ない。初心者におすすめすると銘打っておきながら、このザマだ。オタクが大興奮して喜びをまき散らしただけの記事だ。だが、私は断言する。『戦闘妖精・雪風』は必ずあなたの心に残る本になる。それが良い形になるか悪い形になるかはその人次第だが、心に残ることだけは確実だ。
さて、ここまで付き合ってくれた方、本当にありがとう。もし許されるのであれば、『戦闘妖精・雪風』をその手に取ってみて頂きたい。共に、フェアリィの風を感じよう。